ついにアニメ「BANANA FISH」が全24話で完結しました(号泣)
原作の人気もさることながら、監督が「Free!!」の内海紘子さん、シリーズ構成が「いぬやしき」の瀬古浩司さん、さらにアニメーション制作が「ユーリ!!! on ICE」のMAPPAということで、放送前から注目が集まっていたこのアニメ。
正直原作ファンとしては、24年近く前の原作をどのように表現するのか、多少の不安もありました。
しかし結論からいえば、
このアニメ化は最後まで原作に忠実に、「BANANA FISH」の魅力全てが詰まった最高の作品でした!!!
今回は、最終回(24話)の感想と、原作ファンとして感じたアニメと原作の違いを考察していきます。
※最終回までのネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください
※かなり長いです。各エピソードの考察は筆者の主観になります
目次
最終回24話「ライ麦畑でつかまえて」の感想
放送の3日前から、戦々恐々としながら最終回を観ました。原作を読んだ人なら、もちろんあの衝撃のラストを知っているからです。
漫画で読んだ時は只々悲しく、それでもアッシュの人生を考えるととても救いのあるラストだと感じていました。
ここまで原作を忠実に表現してきたアニメ化ですから、もちろん最後は覆らないだろうと予想していました。
でもやはり....だめだ、変わらなかった(号泣)
漫画でアッシュが死ぬのをみて、アニメでもアッシュが死ぬのをみて、やはり覆ることはないのだと、胸が張り裂けそうな想いでした。
最終回は「BANANA FISH」という薬物に関わっていた人は全て死に、残っていた唯一のサンプルも薬の証拠もすべて消えてしまいました。
汚い大人たちには「買春の容疑」という形で制裁が加わります。
月龍はシンという支えを得て、ブランカはカリブに戻り、英二は日本行きの飛行機に乗って終わります。
そしてアッシュは、シンの義母兄・ラオに刺され、英二の手紙を読みながら、図書館で安らかに息を引き取るのです。
本当に原作通りでした。原作通りすぎて、本当は英二とアッシュが一緒にいられる新しいエンディングも期待していました。
しかし、ラオがアッシュを刺したのには悲劇的な理由があります。
ラオは、仲間を取り戻したあとに約束していたシンとアッシュとの決闘(シンの仲間が英二を撃った時の落とし前)がなくなったことを知りません。
だからこのままアッシュが生きていたら「シンがアッシュに確実に殺される」と考え、犯行に及びました。
このあと辛いのはシンで、ラオは死に、尊敬するアッシュは自分の兄に討たれたー
その後のシンのストーリーは番外編を収録したAnother storyで描かれています。
最終回は、OPの最後に『石塚運昇氏へ感謝を込めてー』という一文が付け加えられました。
これは放送年の2018年8月13日に亡くなられたゴルツィネ役の石塚さんへの追悼の意がこめられています。
挿入歌に1クールのOPを使ったり、最後の英二の手紙のシーンなど、最後までこだわった演出に感涙しました。
英二を「銃と殺し合いの世界から遠ざけたい」と最後まで会わなかったアッシュでしたが、そこは英二の方が上手。
手紙だけでも「僕の魂はいつでも君と共に」と最後まで変わらぬ温かさで、アッシュを包み込んでいました。
最終回のタイトル「ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)」は、「バナナフィッシュにうってつけの日」と同様サリンジャーの小説のタイトルです。
この小説の中で17歳の主人公は、大人や社会の欺瞞を憎み、純粋で無垢な子供たちの性質を愛して孤独を抱えています。
そして、"ライ麦畑で目一杯走り回って遊んでいる子供たちが崖から落ちそうになったときに捕まえる、そういうものになりたい"と言うのです。
このタイトルは、EDの映像と繋がっていました。
もし子どもの時のアッシュが、英二にライ麦畑でつかまえられていたら...そう考えずにはいられません。
アッシュのラストはどうしても覆らないのだと思います。
それはアッシュがこれまでに大量に人を殺していること、このまま生きていてもその神に愛された性質(詳細は後述してます)により、第2、第3のゴルツィネやフォックス達に人生を振り回されていただろうということ。
それでも正直にいえば、英二と共に全てをやり直して、2人幸せに暮らせるというエンディングが見たかったです(願いは叶わない...)
ちなみにシンは、吉田秋生先生のその後の作品「YASHA-夜叉-」や「イヴの眠り」にも重要人物として登場しています。
これらの作品を読んで、アッシュの生きていた世界が繋がっていると思うと何度でも涙がでてしまいます。シンのその後をみられるこれらの作品もアニメ化もしてほしいと切望しています。
原作ファンが感じたアニメ版のすごさ
まず、あの長い原作をラストまで丁寧に表現した構成に感動しました。
もちろん、警察官・チャーリーとショーターのお姉さんの関係といった原作でしか見られないエピソードもあります。
けれど「BANANA FISH」として大切なことは何も削られず、ここまでテンポよく仕上がっていることに、原作ファンとして大満足の作品となりました。
何より1つ1つのシーンがとてもこだわって描かれているのが伝わってきて、本当に幸せな半年間でした。
アニメと原作を比べて感じた3つのこと
1.アッシュと英二の本質を描いたアニメのわかりやすさ
アニメでは「なぜアッシュが英二に好意を向けたのか」が、原作よりもわかりやく表現されていたと思います。
アッシュに魅せられた人は、次々とアッシュを傷つけていく道を選びます。
いわゆる、愛と憎しみのような相反する感情を同時に持った状態=アンビバレンスです。
あの綺麗な少年を自分のものにしたい。
野生の獣のように、魔王のように孤高の美しさを持って君臨してほしい。
ゴルツィネの異常な愛はいうまでもなく、多くの敵キャラがアッシュに対して狂愛か畏怖のどちらかを抱きました。
しかしアッシュにとっては、ゴルツィネ達が求めたのは、そうしならなければ生きられなかったからこそ、強制的にならざるを得なかったアッシュの姿です。
アッシュの過去は、幼くして母親がいなくなり、7歳でレイプされ、唯一愛した兄も戦争へ行ってしまい、
さらに廃人となって帰ってきた兄のために治療費を稼ぎ、歪んだ性愛の対象として大人やゴルツィネに捕らわれ、男娼として、ストリートギャングのボスとして生きてきたという壮絶なものです。
ゴルツィネや月龍が魅了されたアッシュの姿は、必要に迫られて次々と殻を纏っていったアッシュ。
それに対して、英二といるときのアッシュは、17歳の少年として自分が生きたかった姿になれました。
アッシュの純潔の魂が、英二の誠実さと温かさに触れて、はじめて自分でも感じられるようになれたー
凄惨な過去がなければなれたかもしれない自分の姿を思い出させてくれた英二に、アッシュが惹かれるのは自然なことでしょう。
さらに英二は、現在のアッシュをそのまま受け入れ、何があっても自分を信じてくれた唯一無二の存在でした。
そんな英二に惹かれていくアッシュがわかりやすく描かれていたのがアニメ版。
原作でもそうですが、アッシュは最初に英二が「銃をみせて」と言ったときから、その無垢さに少しずつ引かれていったんだろうなと。
「人を殺したことがあるか」と問いかける英二を、「ガキだな」と笑うアッシュ。
それまでアッシュの世界にいた人間たちとは、全く異なる存在である英二への関心が伺えます。
最終回でも、この出会いのシーンが回想されました。
さらにアニメでは、マービンとオーサーに捕まった時に、英二が壁を飛び越えた描写がとても丁寧に表現されていました。(原作では数コマしかないのに)
その後の病院でアッシュが言った「お前は飛べていいよな」という台詞。
ここでアッシュがなぜここまで英二に惹かれるのかという視聴者の疑問への答えが、一部表現されていたのではないでしょうか。
アニメでは度々「鳥」が英二(=自由)を象徴する存在としてでてきます。
英二が第1話で着ている赤いトレーナーにもさりげなく描かれていますし(←考えすぎ?)
病室で鳥を眺めるアッシュの様子や、羽ばたいていく鳥の描写も多いです。
19話でアッシュがゴルツィネに捕らわれ、徐々に感情をなくしていく時にも窓の外で鳥が羽ばたいていきました。
原作ではアッシュが英二に惹かれた理由は、読者の想像によっていろいろな解釈の余地があります。
だからこそ様々な解釈ができてしまう原作の通りでは、はじめて「BANANA FISH」を観る視聴者向けのエンターテイメント作品としてはわかりづらい側面もありました。
そのわかりづらさを、すべての視聴者にわかりやすく表現したことが、アニメと原作の大きな違いだという気がしています。
2.アッシュと英二の「愛」を万人向けに昇華させたこと
アニメ「BANANA FISH」をみていて、原作ではこんなにアッシュの『お兄ちゃん』呼びが印象に残ったかな?と思いました。
原作でもアッシュが英二を『お兄ちゃん』とからかうシーンはありますが、アニメほどではありません。
とくに中盤ではアッシュと英二のお互いが「お兄ちゃん」という言葉を頻繁に使用していました。
これは原作では様々に解釈できる2人の愛情を、兄弟愛・友愛の側面を強めて、BL感を消そうとしたのではないか、と考えています。
特に10話。
ショーターの死後、ゴルツィネの館から逃げだす際に、捕らわれていた英二がアッシュに抱きつくシーンがありますが、BLか!と思わず突っ込みそうになったほど、お互いへの好意と色気がダダ漏れでした。(筆者はBLでも良いと思いますが…)
もちろんこれまでの困難や同じ悲しみ(ショーターの悲劇)を背負っての距離感でもありますが。
その後、アッシュと英二はお互いの人生や過去のトラウマを共有し、さらにかけがえのない存在となっていきます。それに比例して、肌が触れ合うシーン(ハグしたり、頭なでたり)も自然と増えていきました。
見る人が見れば、BLと括られてしまいそうなシーンですが、
アッシュが冗談混じりに「お兄ちゃん」を多用していたのは、単純なボーイズラブとしてではなく、兄弟愛のようなアガペー感を強めるためだったのでは?という風に考えるのです。
あの「お兄ちゃん」呼びがあったからこそ、その後の2人のハグシーンや、レイプされたアッシュを英二が抱きしめるシーンが、家族愛・兄弟愛も含んだような慈愛に満ちた印象になりました。
アッシュと月龍との違いは、アッシュを愛してくれたお兄ちゃん・グリフの存在。
後半のEDでも、優しい笑顔のグリフがアッシュの回顧の中で大きく描かれていますよね。
原作では、後半はほとんどグリフについて触れられていませんが、アッシュの根底にはずっと影響を及ぼしている存在です。
アニメでは、アッシュと英二の関係は、穏やかな兄弟愛・親友愛としての側面が大きく解釈されているのかな、という気がしています。
最終回も最後まで「友達」というワードが強調されていましたしね。
ちなみに筆者は、原作の2人は、男女を超えて完全にお互いに愛しあっていたと解釈しています。体の繋がりではなく、心からの繋がりです。
3.「アマデウス」という比喩の意味とは?
本作では『アマデウス』という表現が二度でてきました。
6話のアッシュの故郷・ケープコッドと19話でゴルツィネにアッシュが捕まっている時のエピソードです。
『アマデウス』とは、元はモーツァルトの名前『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』からきており、イギリスの劇作家であるピーター・シェーファーの戯曲のタイトルでもあります。
簡単にあらすじを紹介すると…
モーツァルトと出会ったサリエリは、その圧倒的な才能に魅了されるが、モーツァルト自身の粗野な振る舞いに落胆し、その天才性を受け入れることができない。
敬虔なカトリック教徒であるサリエリは、神に愛された才能をもつモーツァルトを憎み、モーツァルトを破滅させようとする。
戯曲内では、サリエリがモーツァルトを毒殺したが、それでも凡人以上の評価を得られずに終わる。
※これは史実とは違うといわれている
アマデウスという言葉自体は、ラテン語で「神に愛された」という意味があります。
ここでいう作中の『アマデウス』とは、
自分を超越した天賦の才能を持つものを、憎みながらも愛してしまうこと
という感情の比喩表現です。
あれ?この感情って...
これまでアニメをみてきた人なら、ゴルツィネの異常なアッシュへの愛や、月龍のヒステリックな精神状態をみてピンときますよね。
そう本作では、ゴルツィネ→アッシュ、月龍→アッシュといった様々な人間関係の根底に、アンビバレンスにも似たこの感情が横たわっています。
実際に作中で用いられたシーンをみていきましょう。
一度目は第6話。
アッシュの故郷・ケープコッドで、マックスが伊部さんをからかうように言った「アマデウス症候群だな」という台詞です。
ここは原作の通りで、
伊部「オレはもう1度あいつを跳ばしてやりたい。そのためならなんだってしてやりたいんだ」
マックス「きみは彼になりたかったんだろう?違うか?」
マックス「愛しくて愛しくて憎い。オレのアマデウス!」
というシーン。
アマデウス症候群という病名はありませんが、
伊部さんが、まるで神に愛されたかのような英二の棒高跳びの才能を尊敬しているとともに、彼の才能を愛し、嫉妬しているという状態を比喩しています。
伊部さんは英二の才能を写真に納めてカメラマンとして成功したので、英二がいなければそのカメラマンとしての才能もなかったかもしれないということですね。
ここでは伊部さん(サリエリ)→英二(モーツァルト)の関係です。
二度目は第19話。
英二をブランカの手から逃がすため捕らわれたアッシュに、ゴルツィネが言った台詞の中にでてきました。
ゴルツィネ「今夜はオペラを観にいく。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト「フィガロの結婚」、お前も好きだったろう。」
ゴルツィネ「アマデウス、まさに神の器だ。そしてお前もな。」
ここでいう『アマデウス』は、自分だけの神の器であり、特別な存在であるアッシュを表しています。
『フィガロの結婚』はモーツァルトが作曲したオペラです。
このオペラ自体は、従者の少年が、女中との結婚をきっかけに雇い主である伯爵に一泡ふかせるという喜劇ですが、その実、貴族(生まれながらの特権階級)を痛烈に批判しているとも言われています。
この表現を考えると、主役の2人が様々なキャラクターからの『アマデウス』という感情の対象になっていることがわかります。
最も『アマデウス』の被害者となったのは言うまでもなくアッシュでしょう。
神に愛された魅力・才能をもつアッシュは、幼い頃から人生を狂わされてきました。
嫉妬ゆえの愛が「加護欲」に向いた伊部さんと「支配・独占力」に向いたゴルツィネ。
正反対な運命の2人をこれでもかと対比しているようで涙がとまりません。
ラオに刺されていなくても、やはり「アマデウス」としての魅力をもつアッシュには悲劇的な人生が降りかかった可能性があります。
神に愛された天才は、総じて悲しい最期を迎えるー
そう考えれば、英二の温かさに包まれて18年間の人生を終えられた、あのラストが一番幸せに終われる瞬間だったのかもしれません。(わかっていても辛いですが…)
アニメ「BANANA FISH」の総評
原作の大ファンな分、期待も不安も大きかったアニメ化ですが、
とにかくスタッフさんすごかった!!!(ぱちぱち)
全話すべてがバナナフィッシュ愛に溢れていたのを感じました。
映像は全てポストカードにしたいくらい細部まで美しく、OP/EDも、構成も、演出も、声優さんの演技も、すべてが一体となって最高の作品でした。
本当にありがとうございました!!!!!!
もし筆者がこのアニメ化に点数をつけるとしたら、100点満点中95点です。
ここまでベタ褒めしといて「100点じゃないんかい!」って感じですよね…(笑)
原作を読んでおらず、アニメではじめて知った作品であれば間違いなく、「120点満点!最高の作品だった!!」と絶賛していました。
その理由はバナナフィッシュは人の解釈でストーリーが変わってくる作品だと感じたからです。
実際に原作のラストも未だにハッピーエンドかバッドエンドか議論されるくらい。
上記で考察した英二とアッシュの関係性や、英二の「鳥」などの表現。
もし別の監督さんやスタッフさんが作ったら、どういう風に表現されるのかな...?
と思ってしまったのです。
このアニメ作品はこれで最後まで素晴らしい作品でしたが、やはり20年後、30年後...もし違う未来のアッシュ達に出会えたら...とどうしても願ってしまいます。
バナナフィッシュは読者にとって本当にしんどくて、つらい作品です。
原作を読んだときは、最後のアッシュの死を3日間は放心状態で引きずってしまったのですが、
今回もバナナフィッシュロスを涙をたたえながら噛み締めることになりそうですorz
最後に、原作にはアッシュの死から7年後を描いた番外編があります。
- アッシュの死の影を抱えながらNYで暮らす英二とシンを描いた『光の庭』
- ショーターとアッシュの少年刑務所の日々を描いた『ANGEL EYES』
- ブランカとアッシュの出会いを描いた『PRIVATE OPINION』
などの短編がまとまった珠玉の一冊です。
英二たちのその後や、ゴルツィネの元にいた時代のアッシュが描かれていますので、ぜひアニメ終了の余韻に浸りながら読んでみてください!
最後までご覧いただき、ありがとうございました!
アニメ「BANANA FISH」はAmazon Prime Videoで配信中です。
国外のAmazonでも観られますので、ぜひ全世界のBANANA FISHフリークのみなさんご覧ください。